a storyteller ~情熱の原点~ 第10回 ルーツ・スポーツ・ジャパン代表 中島祥元氏
スポーツ×地域活性化で、地域の未来をつくる
さまざまな分野で意欲的に挑戦を続けるイノベーターたち。革新を起こし時代をリードする彼らを突き動かす、その原動力や原体験とは一体何なのだろうか――。その核心に迫る「a storyteller~情熱の原点~」。第10回は、ルーツ・スポーツ・ジャパン代表取締役の中島祥元氏に話を聞く。中島氏は、スポーツに「心が動く瞬間」を起点に、人の流れを生み出し、地域の価値へとつなげる仕組みを描いてきた。スポーツイベントを点で終わらせず、ツーリズムとして日本各地へ展開する発想の源は、中国で体験したロードレースの熱狂にあるという。中島氏の活動の原点と、その思いに迫った。
中国のロードレースの熱狂を日本でも
――中島さんは2009年にルーツ・スポーツ・ジャパンを設立し、「日本にスポーツを根づかせる」を理念に掲げてさまざまな事業を展開されています。スポーツを仕事にすることになった経緯を教えてください。
中島祥元氏(以下、中島)富山県に生まれ育ち、球技が好きだったので中学から高校までずっとバレー部に所属していました。その後、家から通えるという理由で、スポーツとは関係のない地元の大学の経済学部に進学しました。ところが、入学してすぐに気づいたんです。授業を受けていても自分は面白く思えていないし、このままだと平凡な人生になるんじゃないかと。そして、数カ月で大学を中退しました。
自分が心から好きと思えるものを考えた時、やっぱりスポーツだったんです。ただ、地元では専門的に学べる場が多くなかったため、より深く学べる環境を求めて翌年、早稲田大学の人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に入学しました。そこでスポーツビジネスの基礎となることを学びました。
大学4年生になって、テレビ番組の制作を手がける企業から内定をいただきました。当時は、スポーツだけではなく、音楽やお笑いなどエンタメにも興味があったので、入社するつもりでした。でも、卒業直前になってゼミの友人に「起業するから一緒にやらないか」と誘われたんです。スポーツ系のベンチャー企業で、スポーツ関連のメディアの立ち上げや、スポーツイベントの運営といったビジネスを思い描いていると言われました。「これは面白そうだぞ」と気持ちが動き、内定を辞退して2001年にその友人が立ち上げる会社に加わることにしました。
代表理事/代表取締役 中島祥元氏
――その会社ではどんな事業をされていたのですか。
中島本当に何もないところからのスタートでした。まずはスポーツ系のメディアを立ち上げて記事を書いたりしていましたが、これは全くうまくいきませんでした。そうした中で、縁があってスポーツイベントの運営を手伝う仕事が舞い込んできました。当時はスポーツイベントの運営を専門的に行っている会社が少なかったこともあり、そこから徐々にイベントの主催者から仕事の依頼を頂けるようになったんです。ラグビーやサッカー、野球、水泳など、さまざまな競技に携わりましたね。
――そこで自転車との出会いがあったわけですね。
中島はい。中国で開催された国際自転車ロードレースの運営サポートの仕事を引き受けることになったのがきっかけですね。北京近郊から内モンゴル、新疆ウイグル自治区まで、いろいろな地域で開催される、公道を走るタイプのレースでした。実は、自転車レースをそれまで一度も見たことがなかったんです。初めて現場に入って衝撃を受けました。自転車レースの迫力にも感動しましたが、街全体を使ってレースが行われて、そこに多くの人が集まって熱狂が生まれる。その“空間の力”に圧倒されたんです。
もともと「スポーツ×地域活性化」への関心は自分の中にあったのですが、それが自転車という、自分にとっては未知の競技と結びついた瞬間でした。スタジアムやアリーナスポーツと違って人々が生活する道そのものを使い、地域全体を巻き込む自転車レースの可能性を肌で感じたことで、これを日本でもやってみたいと思えるようになりました。
その後、海外のマラソン大会のサポートや、タッチラグビー※のワールドカップの日本事務局の仕事を行ったりもしました。当時は「スポーツの会社で食べていくなんて無理」と言われていた時代で、そんな中で若い僕らが動いていたので、珍しく思われて声をかけていただくことも多かったんだと思います。
- ※タッチラグビー…タックルやスクラムといった激しい接触がなく、相手の体に手で軽くタッチするだけでプレーが止まるルールのラグビー。年齢・性別・体格にかかわらず誰もが楽しめるのが魅力。
――その後、会社を離れて2009年に自身の会社「ルーツ・スポーツ・ジャパン」を設立されるんですね。
中島前職でスポーツイベントの現場に深く関わり、国内外の大会運営を通じて「スポーツには地域を動かす力がある」と確信するようになっていました。そうした経験が積み重なったことで、自分の中では「この領域で生きていく」という覚悟が揺るぎないものになっていたのですが、紆余曲折あって友人との会社を離れることになりました。そして、自ら「ルーツ・スポーツ・ジャパン」を設立することにしたんです。
事業の内容自体は前の会社と大きくは変わりません。ただし、前の会社では海外との事業が多かったのですが、僕の中では「日本の地域を元気にしたい」という気持ちが強くなっていました。スポーツを通じて地域に人が集まり、熱狂が生まれる。あの空気を日本でつくりたいと思うようになったんです。そんな中、「日本にスポーツを根づかせる」という言葉がふっと出てきて生まれたのが、「ルーツ(根づかせる)・スポーツ・ジャパン」という名前です。自分がやりたいことをそのまま社名にした感じですね。
東日本大震災で見つめ直した、自分たちでつくる意味
――「ルーツ・スポーツ・ジャパン」での事業は順調に進みましたか?
中島ありがたいことに、前職時代にお付き合いのあった方々から声をかけていただき、自転車やランニングの大会をはじめ、自治体や企業からイベント運営の仕事を受託することができました。そのおかげで会社としては順調でしたが、この頃から「自分たちの主催イベントをつくる」という思いが強くなっていきました。地域の人たちともっと深く関わりたいですし、スポーツを通じて地域を元気にするなら、やっぱり自分たちが主体になって動く必要があるんじゃないか、と。
――そこで主催事業に踏み込んでいくわけですね。きっかけはあったのでしょうか。
中島2011年3月に発生した東日本大震災です。全国のスポーツイベントが一斉に中止になって、僕らの受託案件も春先のものは、ほとんどが実施できなくなりました。この時に、受託だけに頼る事業構造のもろさを痛感しました。同時に、スポーツイベントが地域に与える力というものを改めて考える契機にもなりました。人が集まり、笑顔が生まれ、街に活気が戻る。その価値を、もっと自分たちの手でつくりたいと思うようになったんです。こうして、「自分たちでイベントをつくろう」と決めました。
地域と一緒にゼロから企画して、地域の魅力をどう引き出すかを考えて、形にしていく。それが、今のルーツ・スポーツ・ジャパンの事業の柱になっていきました。もちろん簡単なことではなかったのですが、受託で培ったノウハウを生かしながら、地域と一緒に“場”をつくる。そのスタイルが、この頃にようやく固まっていったんだと思います。
――実際にイベントを主催していかがでしたか。
中島開催地域の皆さんと一緒に「共催」という形で、ほんとうに手作りのようなやり方で立ち上げました。当時はまだイベントを自ら主催するような余裕はほとんどなかったのですが、震災をきっかけに「やらなきゃいけない」と腹を決め、地域と一緒に企画して、ゼロから形にしていきました。地域の人たちが前を向くきっかけになるようなイベントを、自分たちの手でつくりたいという“思い”でつくり上げた、当社らしい、象徴的なスタートだったと思います。
「地域の魅力を走って感じてもらう」というコンセプトで、以前から関わる機会が多かったサイクリングとランニングを選びました。この2つは、街の空気や景色をそのまま体感できるスポーツで、地域の良さを伝えることとすごく相性がいいんです。開催地には僕の出身地で愛着のある北陸地方を選び、地元の人たちに「この道は景色がいい」「ここは地元の人に愛されている場所だ」といった話を聞きながらコースをつくっていきました。規模は小さかったものの、地域の人たちが喜んでくれて、参加者も楽しんでくれて、「ああ、自分たちがやりたいのはこれだ」と実感できた瞬間でした。この経験がなかったら、今のルーツ・スポーツ・ジャパンはなかったと思います。
――その後、事業はどのように広がっていったのでしょうか。
中島北陸でのイベントの後、各地の自治体や観光協会の方々と話す機会が増えて、「うちの地域でもやってほしい」と声をかけてもらえるようになりました。受託で培った運営力と、主催で得た企画力が合わさって、少しずつ「地域を舞台にしたスポーツイベント」が広がっていきました。
各地でイベントをやっていく中で、「日本中の地域をつなぐような大きな枠組みがつくれないか」と考えるようになったんです。自転車は地域の魅力をダイレクトに伝えられるスポーツなので、それを全国規模で展開できたら面白いなと。そこで生まれたのが「ツール・ド・ニッポン」という考え方です。「日本を走って巡る」というコンセプトで、各地のイベントをシリーズ化し、地域ごとの特色を生かしながら全国をつないでいく。単発のイベントではなく、地域と長く関わり続ける仕組みをつくりたかったんです。
ツール・ド・ニッポンは、イベントを「持ち込む」のではなく、地域と一緒に「育てる」という考え方がベースにあります。地域の人たちが誇りを持てるようなイベントにしたいし、観光や産業ともつながるような形にしたい。そのためには、毎年同じ地域に通って、地元の方々と一緒に汗をかきながらつくっていく必要があるんです。最初に地域の皆さんとともに立ち上げた、あの手作りのイベントで感じた「地域と一緒にやる面白さ」が、そのままツール・ド・ニッポンの核になっています。
地域の隠れた魅力を発信する観光コンテンツとして注目されている
日本を元気にするために新たなチャレンジを
――最後にルーツ・スポーツ・ジャパンの今後の展望を聞かせてください。
中島2026年4月に、地域のランニングイベントを支援する新ブランド「RUN NEXT(ラン・ネクスト)」を立ち上げました。今、ランニングイベントは大きな転換期にあります。記録志向だけでなく「健康」「ファンラン」「コミュニティ」「旅」「その土地らしさ」といった多様な価値が求められている一方で、現場では人手不足やコスト高騰といった切実な課題が山積しているという話もあります。
しかし価値観が多様化しているということは、イベントを通じて新たな「地域のファン」を増やすための、未来に向けた絶好の機会だともいえる。これまで自転車で培ってきた私たちのノウハウを、今度はランニングの分野でも生かせるのではと考えました。
単に大会を開催するのではなく、「走ることを通じて地域の未来をつくる」という視点を大事にして、地域の名所を巡るコースを整備したり、地元の事業者とコラボしたり、観光とランニングを掛け合わせた体験をつくったりして、参加するランナーにとっても開催する地域にとっても「次の価値」を生み出すことに注力していきたいと考えています。
日本には、まだまだ知られていない素晴らしい地域がたくさんあります。そういう場所に光を当てて、スポーツをきっかけに人が訪れ、地域の人たちが誇りを持てるような仕組みを増やしていきたいですね。ツール・ド・ニッポンが「自転車で日本をつなぐプロジェクト」だとしたら、RUN NEXTは「ランニングで地域の未来をつくるプロジェクト」です。この2つを両輪に、スポーツを軸にした地域づくりをさらに広げていきたいと思っています。スポーツを通じて地域が元気になる瞬間を、もっと日本中で生み出していく。それが、ルーツ・スポーツ・ジャパンのこれからの使命だと思っています。
プロフィール
- 中島祥元(なかしま・よしもと)
- 1976年富山県高岡市生まれ。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、スポーツ関連ベンチャーの立ち上げに参加、のちに取締役を務める。2009年株式会社ルーツ・スポーツ・ジャパンを設立、2012年一般社団法人ウィズスポ(現・一般社団法人ルーツ・スポーツ・ジャパン)を設立し両法人の代表を務める。これまでにプロデューサーとして、自転車、ランニングを中心とした大小さまざまなスポーツイベントの立ち上げから企画運営、スポーツによる町おこし・地域活性化事業、公共スポーツ施設の事業開発等に従事。スポーツツーリズムやサイクルツーリズムの分野では官公庁の行政委員も多数務める。








