超長寿社会における「生きること」と「死ぬこと」(後編)

進むべき道を示す「生き方」のヒント

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死についての問いは、人生への問いに行き着く。いかに生きるべきか、それぞれの人生観、価値観によって答えは異なるだろう。明確な目標に向かって真っすぐ歩む人もいれば、寄り道をしながらゆっくり進む人もいる。僧侶として、仏教の研究者として市井の人々に接してきた天台宗神木山等覺院副住職の中島光信氏と、大正大学社会共生学部専任講師で浄土宗の僧侶でもある髙瀨顕功氏の二人とともに、現代における「生き方」について考えてみたい。
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周囲との関係性の中で
進む道を決める

日本ユニシス株式会社
総合技術研究所 生命科学室長
石原英里

石原 前編で、自分の中の判断基準の有無についての話がありました。「確固たる判断基準」を持つことは望ましいように見えますが、すべての人にそれを求めれば生きづらい世の中になりそうな気もします。その判断基準がどのタイミングでどのように作り上げられたかによっては、判断基準を持っていることが生きづらさにつながる可能性もある。「判断基準」を持つことについて、お二人はどのようにお考えですか。

中島 先ほど、「社会に自分を活かせる」方向で考えてきたと言いました。それにも通じる話ですが、私には、「周囲との関係性の中で自分ができている」という感覚があります。「自力(※1)」ではなく、「他力(※2)」に引っ張られていまの自分ができたといってもいいでしょう。仏門に入ったきっかけもそうです。日本だけでなく海外も含めて、現代を生きる人々の中で、自分の判断基準に基づいて目標にまい進する人はたぶん一握りだと感じます。多くの人は「自分を取り囲む人たちとの関係性の中で進む道が決められていく」のではないでしょうか。誰かに「手伝ってよ」と声をかけられて、「困っている人の役に立ちたい」と思って寄り道をすることがある。寄り道のつもりだったのに何年もたって振り返ったら、それが本業や本職になっていることもあるでしょう。「進むべき道」は、そこにこそ重要なヒントが隠れているようにも思います。

(※1)「自力(じりき)」とは、仏教用語で、自分に備わった力、能力、また、修行・精進で身に付いた功徳力によって悟りを開こうとすること。
   
解釈には諸説ある。

(※2)「他力(たりき)」とは、仏教用語で、衆生を悟りに導く仏・菩薩の力や加護のこと。解釈には諸説ある。

大正大学
社会共生学部 専任講師
髙瀨顕功氏

髙瀨 そういえば、私自身の経験ですが、大学院への進学前に養護学校の教員をしたことがあります。地元の先輩から、産休に入る先生の代わりに授業を手伝ってくれないかと誘われたのです。そこでは、知的障がいのある8人ほどのクラスを担当しました。例えば、自閉症の子どもは概して、「これは、こうでなければならない」というこだわりが強いといわれます。担当したクラスには、「窓は開いていないとダメ」という子どもと、「閉めなければならない」という子どもがいて苦労しました。それぞれの個性が違うのです。片方のこだわりが相手にとって心地よくないこともある。どうすればお互いに納得し、違いを受け入れていけるのか、子どもたちとのこういった経験は、僧侶としての自分自身の姿勢に反映されていると思います。そのほかにも、家族との思い出や同級生が何気なく放った言葉の記憶が人生観に影響を与えることだってあるでしょう。「周囲との関係性が自分をつくっていく」という話には強く共感します。

中島 人との出会いや会話から影響を受けて、自分自身が少しずつ変質していく。それを「成長」と呼ぶ人もいますが、多くの人は「行きつ、戻りつ」しながら手探りで生きているのだと思います。「A→B→C」といった直線構造というより、「A→B→A」と循環していくように、らせんを描いているようなイメージが私の中にはあります。

物語の持つ、
人の心を動かす力

石原 ところで、お二人とも、さまざまな機会に法話をすることがありますよね。そのとき話したことが、誰かの人生や「生き方」に影響を与えることもあるはずです。

天台宗
神木山等覺院 副住職
中島光信氏

中島 法話を聞いてこのお寺に来るようになった信者さんはいます。法話の中の何が響いたのかは分かりませんが、法話で心掛けたいと思っているのは、「手触り感」のある話をすること。実は、講談を聞くのが好きなのですが、「語り」の力、「ストーリー」の持つ力はすごいと感じます。それを法話に生かせるかどうかは分かりませんが、身近な物語を通じて何かを伝えることはできると思っています。

石原 確かに、物語には人を動かす力がありますね。幼いころ、紙芝居や絵本の読み聞かせで触れた物語に自分を投影して、その物語の登場人物になった気持ちを抱えていたり、「〇〇ごっこ」遊びなどで追体験をしたりしていました。その経験が自分の判断基準を作る一端になっているという実感があります。講談も追体験につながる機会になる印象が強いですが、個人的にはお葬式や法事の法話もそれに通じるものがありますね。とはいえ、万人に同じ感覚を与えるものではないことは承知していますが……。

髙瀨 そうですね。プロ野球の世界でも3割打てれば一流と言われます。そういうわけで、私自身は、10人いれば3人くらいに「聞いてよかった」と感じてもらえる話ができればと思っています。法話には話すシチュエーションや相手の心境もありますので、さまざまな場に即し、聞く側の心を意識して話すことを大切にしています。ただ、誰かの人生に影響を与えなければ、といったことは特別意識していません。

中島 では、僧侶はどのような物語を語るべきなのだろうか、とはたと考えてしまいます。天台宗には、「一隅を照らす」という言葉があります。小さな隅っこでもいいから、その場所を照らすよう頑張りましょうとも解釈されます。しかし、照らす元気もない、照らそうと考えるだけでつらいという人が、世の中にはたくさんいるはずです。そんな人たちに寄り添いたいと私は思います。いつか、そういう語りができるよう、今は試行錯誤をしつつ、ワークショップの開催なども積極的に実践しているところです。

周囲との関係性の中で
立ち上がる自己

石原 髙瀨さんのお話で、経験が自分自身の姿勢に反映されているという内容がありました。一方で、前編で触れた通り、幼少期から限られた選択肢の中で過ごしてきたと仮定すると、経験のバリエーションは少ないのではという懸念があります。先のお話に合ったような絵本や紙芝居、講話、法話を通じた「追体験」も1つの方法ですし、模擬葬儀の体験はその後の人生を見直すきっかけになったという話も聞きます。VRやARなどを用いて臨場感のある追体験をすることも自己決定や人生を見直すきっかけとして有用では、と思うのですがいかがでしょうか。

中島 現在のARやVRは視覚に頼る部分も大きいと感じていますので、臨場感という部分では違和感があります。体験には、視覚だけでなくそのときのにおいや触感などさまざまな感触がありますので。ただ、追体験というのは良いかもしれません。

髙瀨 確かに、たとえ個人的な体験や思いといえども、それを分かち合う誰かがいて初めてその人自身の鮮やかな記憶や思い出として固定されるような気がします。面白い出来事に遭遇したとしてもそれを分かち合う人がいなければ、遠からず忘れ去ってしまうのではないでしょうか。困難な仕事に一緒に取り組んで苦労した仲間との関係は、長く続くものです。私が老境に足を踏み入れる何十年か後には、できれば、そういう友人とともにお酒を飲めるようになりたいですね。

中島 同窓会に行ったりすると、「お前、あのときこうだったよな」とか、自分でも忘れている話をされることがあります。それが、自分を確認する機会にもなる。他者の記憶をきっかけに、気づかなかった自分の姿が見えてくるときもあります。

石原 今後は、会話の中で語られる思い出やアルバムに収められた写真からたどる記憶の中の風景が、進化を続けるAR/VR技術などを用いて、五感も刺激するような形でさらにリアルな映像として再現されるかもしれません。過去の再現映像の中に立ちながら、「こんなことがあった」なんて笑い合ったり、新たな気づきを得たり、そして人生を振り返ってこの先の生き方を決めることにつながったりする。そんな同窓会が行われるのも遠い未来の話ではないように思います。

髙瀨 そうですね。そんな未来が来ると良いですね。ところで、私自身は「自分らしく生きるために/死ぬために、どうすればいいでしょうか」と問われることがありますが、とても難しい質問です。自分らしく何かをするためには、「自分」を知っていなければなりません。「自分は何者か――」。忙しい日常を生きる現代人の多くにとっては、それを考える時間もないでしょう。しかし、他者から「お前はこういうところがある」とか「こんな性格だね」といわれれば、そこに、おぼろげながら「自分像」のようなものが立ち上がってくる。そんな共生関係の中で、人間は自分のことを少しずつ知っていくのでしょう。私自身としては、多様な価値を認め合い、共生の思想を広める場所としてお寺が機能するように、大学での活動に加えさまざまなITツールなども活用しながら、より良い社会の在り方を見つめていきたいと考えています。

石原 なるほど。自分らしさとか、個としてのアイデンティティーといったものに捉われる必要はないのかもしれませんね。超長寿社会が訪れつつあり、テクノロジーでさまざまなことが実現するとしても、「他者との豊かな関係づくり」に改めて目を向け、いろいろな経験を積んでいくことが、結果として豊かな人生につながるヒントとなりそうです。本日はどうもありがとうございました。

編集後記:「ジェロントロジー」をどう考えるか?

超長寿社会の実現が間近に迫り、その中でいかに身体的、精神的、社会的に良好な状態を実現できるかに迫った今回の「ジェロントロジー」連載(全3回)、いかがだったでしょうか。

第1回では、健康寿命が尽きた喪失感を克服し、「誰にでも自由な移動が可能となる社会環境をつくること」を目指す「トラベルヘルパー」の取り組みをご紹介しました。第2回では、平均寿命と健康寿命とのギャップを埋めるために研究される最新のロボットやAI技術に加え、超長寿社会の到来に備えた個々人の意識改革の必要性や社会制度の在り方を考えました。そして、第3回では、「延伸する『生』の中で、自分がどのように今を生き、どのように死んでいくべきなのか」という「心の在り方(死生観)」を考察し、より良く生きるためのヒントを探ってきました。

不確実性がさらに増していくこれからの時代、本企画が、「100年人生」をより良く生きるために知恵を絞り、幸福度を増幅していくための一助となれば幸いです。

ジェロントロジー研究協議会について

幸福で豊かな日本社会のあり方を再構築するためのアプローチとして一般財団法人日本総合研究所会長/多摩大学学長の寺島実郎氏が提唱する「ジェロントロジー」という視座から、高齢者のみならず若者を含む全世代の視界から体系的研究を行い、その成果を制度設計等に反映することを通じて、サステイナブルな「新たな社会システム」の構築を行うことを目的に、「ジェロントロジー研究協議会(会長:寺島実郎氏)」が2019年1月に設立されました。

日本ユニシスは、研究全体の支援、制度設計(資格認定制度含む)の検討等を実施する同協議会に、代表取締役社長の平岡昭良がコアメンバーとして参加し、また高齢者に関わる各分野における、高齢者向け参画のプラットフォームの検討等を実施する「ジェロントロジーに係る体系的研究会」(座長:寺島実郎氏)に、総合技術研究所生命科学室長の石原が参加しています。

*なお、本記事はジェロントロジー研究協議会の議論とは関係なく、超長寿社会の将来像を語り合ったものです。

Profile

髙瀨 顕功(たかせ・あきのり)
大正大学 社会共生学部専任講師
1982年生まれ。立命館大学文学部卒業。大正大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。ペンシルベニア大学客員研究員、上智大学グリーフケア研究所研究員を経て現職。浄土宗法源寺副住職。その他、東洋大学文学部非常勤講師なども務める。
中島 光信(なかじま・こうしん)
天台宗神木山等覺院 副住職
10代の頃、平和活動家として活動していた禅僧「ティク・ナット・ハン」氏を知り、氏の「行動する仏教」の姿勢などに影響を受け2007年に比叡山にて修行。また市民活動の中でワークショップ、ファシリテーションに触れ、そこに古来より寺・僧侶が担ってきた役割と共通するものを覚える。2008年より『仏教×ワークショップ』や震災ボランティアにお寺を開放する「こころのお堂」、世界三大宗教を対比するイベントなどを開催し、ファシリテーターとしても活動。また、世界一周旅行に加え、インドを自転車で旅し仏教四大聖地を巡拝するなどアクティブかつ多彩に活動している。
石原 英里(いしはら・えり)
日本ユニシス株式会社 総合技術研究所生命科学室長
2007年、日本ユニシスに入社。病院向け情報システムや地域医療連携システムの提案・開発に従事した後、医療・ヘルスケア分野を中心とした新たな社会基盤の構築に取り組む。2016年に総合技術研究所に異動、生命科学室長に就任。

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