ゲーム理論で読み解く日本経済の課題

失われた20年に陥った“罠”

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「低迷する生産性」や「イノベーション創出の乏しさ」は、日本経済が抱える慢性的な課題である。大阪大学大学院経済学研究科准教授の安田洋祐氏が、多くの日本企業をいまだに負のスパイラルに縛り付けている要因を経済学やゲーム理論によって分析し、その解決策についてミクロとマクロの視点から解説する。

「正のスパイラル」への転換の兆しがようやく見えてきた

平成元年(1989年)の世界時価総額ランキングを見ると、日本企業が上位50社中の実に32社を占めていた。ところが、それから30年を経た令和元年(2019年)の現在、日本企業でランクインしているのは第42位のトヨタ自動車のみだ。

なぜ日本企業は、こうも勢いをなくしてしまったのか。大阪大学大学院経済学研究科准教授の安田洋祐氏がまず指摘するのが、賃金と投資の伸び悩みが連鎖する「負のスパイラル」というマクロの罠である。

大阪大学大学院経済学研究科 准教授
安田洋祐氏

周知のとおり、バブルの崩壊後に過剰資産を抱えた多くの日本企業は、バランスシートを改善するために悪戦苦闘してきた。そうした中で起きたのが労働者の賃金抑制だ。安い労働力が確保できるうちは、企業は積極的な資本投資を行わず労働集約的なビジネスモデルにシフトしていく。当然のことながら、設備投資を続けている企業と比べて労働の限界生産性(追加的な労働力が生み出す生産量)は減少していき、労働者はアウトプットを増やすことができない。結果として労働者はますます買い叩かれ、賃金はさらなる値下げに向かっていく。これがすなわち日本経済が陥った「失われた20年」の負のスパイラルだ。

だが、この1~2年で「正のスパイラル」への転換点への兆しがようやく見えつつある。「これまで日本で賃金の安い労働力が枯渇しなかったのは、まず非正規労働者が増加し、続いて女性の社会進出やシニア世代の再雇用が促されてきたことによります。しかし、そうした人材もいよいよ枯渇しており、待遇を改善しないことには人を雇えない時代となっています。一方で、『人を増やせないのなら機械(AIやIoTなどの先端テクノロジーを含む)を導入するしかない』と考える企業の増加とともに設備投資が増えつつあり、これに教育などの人への投資が伴えば、1人当たりの生産性も向上していきます。これがさらに賃金の上昇につながれば、これまでとはまったく逆向きの正のスパイラルが回り始めます」と安田氏は語る。

ゲーム理論に基づく戦略思考で
ブラック均衡から脱却せよ

もっとも、人材の枯渇がきっかけとなって、正のスパイラルが回りはじめると期待するのはまだまだ早計だ。安田氏は、日本経済が陥ったもう1つの「ミクロの罠」として、「日本企業の変わらない働き方」を挙げ、「働き手を『ブラック均衡』とも呼ぶべき状況から脱却させないと、いつまでたっても限界生産性の上がらない、非効率な業務にとどまってしまう恐れがあります」と警鐘を鳴らす。

出典:安田氏の報告資料を基に作成

安田氏は、普段我々がパソコン操作などで使っているキーボードのQWERTY型のキー配列を例に挙げ、このように語る。

「実はQWERTY配列はタイピングに向いていません。タイプライター時代に文字のハンマーの絡みを起こさないように、よく使うアルファベットキーをあえて離したため、このような配置になったという説が有力です。では、なぜパソコンになっても改善されなかったのでしょうか。ユーザーもメーカーも、その状態から抜けることで得られるインセンティブがほとんどなく、逆に自分だけが抜けると今よりも損をしてしまうことを知っています。ある技術や仕組みが一度普及のパスに乗ってしまうと、容易にそこから抜け出せなくなるという意味で、これは『パスディペンデンス(経路依存性)』とも呼ばれています」

そして、この現象を、最適な行動・戦略の選択を科学する「ゲーム理論」から考え、ブラック企業の労働問題に当てはめてみると、男性社員の有給・育児休暇の取得が一向に進まない理由が見えてくるという。たとえ制度として有給・育児休暇が認められていたとしても、実際にそれを選択できるかどうかは別問題なのだ。育児休暇を取得することで、査定が下がる、昇進が遅れる、大きな仕事を任せてもらえなくなるなど不利益が生じることが予測されたなら、社員は合理的な判断として有給・育児休暇の取得を見送ることを選択する。これではいつまでたっても働き方改革など絵に描いた餅である。

では、どうすればこのブラックな均衡状態である「ブラック均衡」を打破することができるのか。安田氏は、次の2つの解決策を紹介する。まずは「空気を読まない人材の採用(ダイバーシティ)」だ。「外国人や帰国子女など、休暇取得に対して抵抗がない人材を採用すると、それまで空気を読み合っていた社員の期待も変化し、本人だけでなくまわりも行動が変わり始めます」と安田氏は語る。要するにプレーヤーを変えることでゲームチェンジを起こすという戦術だ。

次に「経営陣や上司のコミットメント」である。たとえば日本郵船では、育休取得に奨励金を支給することで、従来ほとんど育休をとっていなかった男性社員の取得率は約40%まで高まったという。「会社が本気で休暇取得を推奨するというシグナルを発することが、社員の期待を大きく変えるきっかけとなるのです」と安田氏は強調する。

こうした戦略思考により、正のスパイラルへの転換を図る企業は徐々に増えている。もっとも、ブラック均衡は企業が抱えるさまざまな課題のごく一部の側面を単純化して捉えたものにすぎない。仮に今の上司が改革に前向きな姿勢を示したとしても、次の上司がそれを覆す可能性があるとすれば、社員はそれぞれにリスクを考えながら個別最適の行動をとらざるをえない。

企業文化そのものを変革しなければ、本当の意味でブラック均衡を解消するのは困難なのだ。そこに万能的な処方箋があるわけではなく、日本郵船のように取り組みが成功する場合もあれば、失敗することもあり、企業は試行錯誤を繰り返しながら自分たちなりの答を探していくしかない。ただ、確実に言えることは、人材が枯渇していく中で労働市場は売り手市場となっており、いつまでたってもブラック均衡から脱却できない企業には人材が集まらなくなるということだ。既存の人材の離職を抑えることも困難となるだけに、1日も早い変革が急がれる。

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