さまざまな分野で意欲的に挑戦を続けるイノベーターやクリエーターたち。革新を起こし、時代をリードする彼らを突き動かす原動力や原体験とは――。その核心に迫る連載企画「a storyteller ~情熱の原点~」。第4回は、世界のバリスタが腕を競う競技会「WORLD BREWERS CUP 2016(ワールド・ブリュワーズ・カップ2016)」にて、アジア人初の世界チャンピオンに輝いた粕谷哲氏。バリスタとして長いキャリアを有していると想像するが、実は粕谷氏がバリスタとして働き始めたのは2013年。わずか3年という短期間で世界制覇は成し遂げられたのだ。粕谷氏の理念と情熱、さらに世界を驚かせた「革新」に迫る。
- ヘッドライン
自身の経験を踏まえ「誰でも淹れられる」おいしいコーヒーを目指した
――昨今のカフェブームによって、日本でも「バリスタ」という言葉が広く一般に浸透してきました。まずは粕谷さんが考えるバリスタについて教えてください。バリスタとはどんな仕事で、どのような知識や技術が求められるのでしょう。
粕谷バリスタという仕事に厳密な定義はありません。バリスタとはお客さんからお金をいただいてコーヒーを提供する仕事。実は、誰でも簡単に始められる職種です。でも、だからこそ「良いバリスタ」と「悪いバリスタ」の差が出る。悪いバリスタは商品を提供するだけの人。いいバリスタは価値を提供できる人。まずはその違いを理解するところからですね。
バリスタに知識と技術はもちろん必要です。コーヒー豆の品種や産地、トレンドなど、日々更新される情報をインプットしていく。インプットがなければ、アウトプットができませんから。コーヒーを淹れる技術も大切ですが、最低限できればいいと思う。
技術は些末なものなんですよ。カフェには、バリスタとちょっとした会話を楽しみたいと思って来店する方もいらっしゃる。そのお客さんにとっては、会話が体験価値を高めることにつながります。でも、僕にはそれができない。人見知りな性格で、元々接客が得意ではないんです。だから、他のところで体験価値を感じていただくしかありません。
僕にできること――。それは、「おいしいコーヒー」を提供することでした。背景の1つには、ずっと感じていた「日本のコーヒー業界って何か変だなぁ」という気持ちがありました。「家で飲むコーヒーよりも店で飲むコーヒーがおいしくて当然」と考えている部分があるし、そのおかしな状況がずっと放ったらかしにされている。コーヒー豆を売っている人が、お客さんに対して「あなたの力ではこの豆をおいしくすることはできませんよ」と言っているようなものです。だから、僕はお店と同じように家でもおいしいコーヒーを淹れられる方法を確立させて、それをメソッドとして広く提供したいなと思っています。
会社勤め時代に糖尿病を発症。入院をきっかけに拓けた新しい道
――家でもお店と変わらない味わいが楽しめる。とても素敵なことですね。では、粕谷さんがバリスタになった経緯を聞かせていただけますか。
粕谷大学と大学院でフィナンシャルを学び、IT系の企業に就職しました。仕事は順調でしたが、2012年に突然体調を崩して。喉の渇きが止まらず、2週間で7~8キロ痩せました。会社の健康診断でⅠ型糖尿病だと診断され、即座に入院。糖尿病の場合、コーヒーは飲んで構わないと聞き、入院中の時間つぶしのためにコーヒーを淹れる道具一式を購入しました。
購入した道具でコーヒーを淹れてみると、全然おいしくない。がっかりするより、そのまずさがなんだか新鮮に感じました。自慢じゃないですけど、それまでの僕の人生は順調で、新しい仕事も問題なくこなせていた。なのに、コーヒーはおいしく淹れられないし、どうしておいしくないのか理由さえわからない。そこに面白さを感じたんです。
退院後は通院しながら自宅療養。コーヒーのガイド本を何冊も買って、その通りに淹れてみる。「コーヒーにはいろいろな淹れ方があるんだなあ」と、発見の繰り返しでした。会社には戻る予定でしたが、いろいろあって辞めました。
会社を辞めて時間ができたので、ずっと前から抱いていた「イギリスに移住したい」という夢を実現しようと思い立ちました。ワーキングホリデーに応募しようと調べてみると、参加の抽選は毎年1月にしか行っていない。会社を辞めたのが6月だったので、半年間、何もやることがなくなってしまった。
そこで茨城県のスペシャルティコーヒー専門店「コーヒーファクトリー」でアルバイト。イギリスに行った時にカフェでバイトでもできればいいや。そんな軽いノリで、バリスタを始めることにしました。
半年後、イギリスへのワーキングホリデーに応募しましたが、抽選はハズレ。もう1年、コーヒーファクトリーで働くことになりました。さらに1年が経ち、今度はワーキングホリデーの抽選に当選。渡航の準備を始めましたが、業務の一環で2015年に開催された「ジャパンエアロプレスチャンピオンシップ(※1)」という国内大会に出場。思いもかけず優勝し、翌年開催される「ワールド・ブリュワーズ・カップ2016(※2)」の出場権を獲得。ワーキングホリデーは見送り、世界大会に出ることを決めました。
※1 ジャパンエアロプレスチャンピオンシップ:抽出器具「エアロプレス」を使用したコーヒー抽出の技術を競う競技会。参加者はエアロプレスを使用して、制限時間内に最高品質のコーヒーを抽出することを目指す
※2 ワールド・ブリュワーズ・カップ:世界的に著名な「ワールド・コーヒー・イベンツ(World Coffee Events)」が執り行うコーヒー競技会の1つ。本大会は、「ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ」や「ワールド・ラテアート・チャンピオンシップ」などと共に世界的に権威ある国際競技会として認識されており、フィルターコーヒーの抽出技術とサービスクオリティの向上を目的として開催されている
トレンドと正反対を行く“斬新なアイデア”で世界を制した
――粕谷さんはその世界大会「ワールド・ブリュワーズ・カップ2016」でチャンピオンに輝きます。バリスタになってわずか3年で世界一の栄冠をつかんだ理由をどのように分析していますか。
粕谷最大の勝因はアイデアのよさですね。当時のコンテストは、技の競い合い。出場者が誰にもできないような技でコーヒーを淹れていく。それが審査員に評価されていたんです。でも、僕のプレゼンテーションは正反対。難しい技ではなく、誰でもおいしく淹れられる方法「4:6メソッド」を提案した。それが審査員の目に「新しい」と映ったのでしょうね。
――4:6メソッドは粕谷さんが考案した画期的なハンドドリップ手法ですね。誰でも簡単においしいコーヒーを淹れられるよう、コーヒー豆と湯の分量、注ぐタイミングなどが明確に示されています。
粕谷コーヒーの淹れ方を理論に落とし込む。そんな発想をする人は当時、誰もいなかった。僕が出てくるまで、バリスタという仕事は感覚的なものだったんです。なぜ有名なバリスタが淹れるコーヒーはおいしいのか、理論的に説明できますか? その答えはずっと「経験を積んでいるから」などという感覚的な説明で片付けられてきました。でも、僕はすべてロジックに落とし込んだ。それが世界一になれた理由でしょう。
――世界一の称号を手に入れて、人生は変わりましたか。
粕谷思ったほど変わりませんでしたね。優勝して3~4カ月は新しい仕事の依頼もなく、以前と変わらずコーヒーファクトリーでバリスタをやっていました。その後、海外から仕事の依頼が少しずつ来るようになりましたが、思ったほどではなく、焦りのようなものを感じ始めました。
「世界チャンピオンになれば世界は変わる」。正直なところ、そんなふうに思っていたんです。でも賞味期限はすぐに切れてしまう。世界チャンピオンになったといっても、新しいチャンピオンが毎年誕生する。
だから、世界チャンピオンの肩書きが通用する1~2年のうちに自分の店と会社を作って、自分のやりたいことができる環境を整えなければいけないなと。
そう考えていた時に、フィロコフィア共同経営者の梶真佐巳さんから「一緒にコーヒー専門店を始めないか」と声をかけてもらった。僕にも店を持ちたい希望があったので、「じゃあ、一緒にやりますか」と。そうしてフィロコフィアが誕生し、現在はカフェの運営の他、コーヒー豆の輸入・焙煎・販売などを行っています。
生産者からバリスタまで。コーヒー業界で働くすべての人を豊かにしたい
――フィロコフィアの現況とこれからについて教えてください。
粕谷今、一番注力しているのは会社の規模を大きくすること。生産者への利益還元も考えると、コーヒーの生豆をどれだけ買っているかが重要になります。
さらに生産者だけでなく、コーヒー豆のサプライチェーンにはさまざまな職種の人が関わっている。その流通の中で、カフェを運営する僕たちは最終的にお客さまと直接向き合うことができる重要なポジション。お客さまに向けて、「一杯のコーヒーのために努力している人が世界中にたくさんいる」と伝えていきたいです。でも小さなカフェが声を上げても、届く範囲は限られてしまう。だから規模を大きくしたいんです。
そしてもう1つ、フィロコフィアで働く従業員の生活をもっと豊かにしてあげたい。コーヒー業界って、本当に給料が低いんです。だから給料を高く設定できるようなビジネスモデルを構築したい。どんなアイデアが有効でしょうね。売り上げを大きくするだけなら、店舗数を増やせばいい。でも、店舗運営はコストがかかるので、従業員の給料は抑えなければならない。規模の拡大と従業員の豊かさの両立のために、日々頭を悩ませています。
――YouTubeでの情報発信にも力を注いでいますね。
粕谷YouTubeはビジネスのためと割り切ってやっています。僕の知名度を上げて、そこに付随するステークホルダーに価値を提供する。それがビジネスの拡大につながると考えています。それに個人でメディアを持ったほうが、正確に情報が発信できるじゃないですか。メディアを信頼していないわけではありませんが、僕と視聴者の間に人が介在すると、真意が間違って伝わることがある。自分の言葉で直接伝えたいんです。
――日本のコーヒー文化発展のために、どんな未来を思い描いていますか?
粕谷現状として、日本のコーヒーのクオリティはとても高い。品質が平均的に高く、おいしいコーヒーを飲める店が多いですよね。でも、日本はどんな分野でもクオリティの高さばかりを追求しがち。それって、進んでいるようで、実は遅れているようにも思うんです。例えば、アメリカ人にとってコーヒーは欠かせないものですが、クオリティについての話はほとんどしません。ただラフに、自由に、コーヒーをただただ楽しんでいるんです。そうした日常への溶け込み方が本当の文化なのかなと思います。
日本でもおいしいコーヒーが、もっとごく普通に飲めるようになってほしい。その実現のために、フィロコフィアで後進を育てたい。単に優秀なバリスタということではなく、僕と同じ方向を向いてコーヒー文化の発展のために尽くしてくれる人。そのためにも、僕は若い人のロールモデルになれるよう、さらに挑戦を続けていきたいと考えています。
Profile
- 粕谷哲(かすやてつ)
- 2012年に1型糖尿病を発病し、入院生活中にコーヒーに目覚める。2013年、バリスタとしての道を進み始め、2016年にWorld Brewers Cup 2016に日本人初の決勝進出。アジア人として初の世界制覇を達成。2018年には、「PHILOCOFFEA(フィロコフィア)シャポー船橋店」をオープン(現在千葉県内に3店舗)。その他、アジアや日本各地でセミナーやワークショップを行い、次世代のバリスタ育成や一般消費者に向けてコーヒーの魅力を発信している。コーヒーに関する書籍も出版し、多数翻訳され海外でも人気を博している。