小説『PULSE』 Chapter3ー55年前の夏
「この星で生き続けるために」——それは遠い未来の話ではなく、私たちが“今をどう生きるか”という問いでもあります。
地球環境や社会の持続可能性はもちろん、身近な誰かのいのちや暮らし、そして次の世代へ渡していく日々の選択も、その一部です。
私たちはこの深淵なテーマの一端にふれていただくために、物語を描きました。
これからお読みいただく短編小説『PULSE』は、2025年の大阪・関西万博を訪れた主人公がある体験をきっかけに55年前の万博と“つながる”物語です。
健康が「面倒な宿題」だった感覚が、世代を越えて受け取ってきた“想い”にふれることで、少しずつ意味を変えていきます。
読み終えたとき、もしあなたの中で何かが小さく動いたなら——それはきっと、あなた自身のPULSEです。
眩しい。
光を感じる。
照明ではない。じりじりした、太陽の熱感だ。
頬にまとわりつくような湿った空気とともに、アスファルトに立っている靴底の感覚を確かめる。
遠くからはどこか古めかしい音楽、近くでは人のざわめきが、いずれも膜を張ったように聞こえる。
「…づ…る……ち…づる? 千鶴、大丈夫?」
耳元で、私の名前を呼ぶ声だけが、鮮明に聞こえた。
千鶴。
……私の名前? じゃない。
ゆっくりとまぶたを開けると、亜紀——ではない。見知らぬ女の子の顔が、目の前にあった。
「急にぼうっとしたから、びっくりしたわよ」
肩までの髪をリボンで結んだ女の子。
白地に小さな花柄のワンピース。
目はくりっとしていて、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……えっと」
声を出そうとして、自分の声に自分が驚く。
少し高くて、落ち着いた、知っているようで知らない声。
「本当に大丈夫? 水飲む?」
女の子はそう言いながら、手に持っていたハンカチで私の額をそっと押さえた。
「結子……?」
なぜか、名前が口からするっと出た。
言ってから、私がいちばん驚く。
「何それ。記憶喪失でもしたみたいね」
女の子──結子はくすっと笑う。
なんで、知ってるんだろう。
さっき会ったばかりのはずなのに。
いや、「さっき会ったばかり」じゃない感覚も、同時にある。
頭がぐらぐらする。
私は思わず視線をそらし、周りを見渡した。
人、人、人。
見渡す限り、人の波。その頭上に、カラフルな旗。
遠くに、巨大な白い塔が見える。顔みたいな模様がついていて、両腕を広げている。
教科書で見たことのあるシルエットが、現実の空の下に立っていた。
『EXPO’70』
『人類の進歩と調和』
どこかで見たフレーズが、やけに新鮮に目に入ってくる。
……え、ちょっと待って。
さっきまでいた白い部屋も、スクリーンも、どこにもない。
代わりにあるのは、古いフォントの看板、見慣れない雰囲気の建物、"未来風"な服を着た女性たち——。
足元をふらつかせながら、近くの建物のガラスに目をやる。
そこに映っていたのは──昨晩、写真で見た女の子だった。
細くて、背が低くて、どこか儚げなあの少女。
褪せた写真の中で微笑んでいた、おばあちゃんの“若いころ”が、ガラスの中で私を見返している。
「……」
言葉が出ない。
「どうしたの? 千鶴、本当に大丈夫?」
結子が、私の腕をそっと支える。
触れられたところから、身体の感覚がじわじわ戻ってくる。
心臓の鼓動。
さっきまでよりも、少し不安定なリズム。
膝の裏が、なんとなく頼りない。
──これ、私の身体じゃない。
でも、不思議なことに、「千鶴」と呼ばれることへの違和感は、少しずつ薄れていく。
夢の途中に放り込まれたみたいな感覚と、「ここにいたことがある」という妙な既視感が、頭の中で重なっていく。
──あなたのルーツにアクセスします。
さっきスクリーンに浮かんだ言葉が、ゆっくりと意味を持ち始める。
「……うん、大丈夫」
私はそう答えていた。
私の口が、千鶴の声で。
「ほら、せっかく遠くから来たんだから、入口なんかで倒れないでよ?」
結子が冗談めかして笑う。
その笑い方に、どこか安心している自分がいる。
会場を歩き出すと、「当時の未来」だらけだった。
頭上を走るモノレール、背丈を揃えて並ぶ数々の国旗、白く、湾曲した巨大な建物。
「ねえ、どうしよう、どこから回ろう」
結子がそわそわした様子で、パンフレットを広げる。
紙の地図には、色とりどりのパビリオンがぎっしりと描かれていた。
「結子は、どこに行きたいの?」
私が尋ねると、結子は目をきらきらさせて、ある場所を指さした。
「これ! 未来のくらし館! ほらこの絵見てよ、テレビが壁一面にあって、キッチンが全部自動で動くのよ。こんなもの売る仕事も、楽しいだろうな。おしゃれな制服着てさ、デパートとかで」
パンフレットの絵には、丸いテレビと、ボタンだらけの冷蔵庫と、きれいなエプロンを着た女性が描かれている。
「結子、そういうの似合いそう」
自然と、千鶴の台詞が出てくる。
口が勝手に、いつもの会話をなぞっているような感覚。
「似合うといいなあ。千鶴は? 看護婦さんとか?」
「え……」
そこで、言葉が引っかかる。
頭の中の「私」と、身体に染みついた「私」が、少しだけずれる。
気づくと、口がひとりでに動いていた。
「小さいころから病院通いばっかでさ。お医者さんに“あんまり無理するな”って言われてるから……無理なくできる仕事ができればいいかなって」
──あれ、これ、私が考えた言葉?
しゃべっているのは私なのに、どこか“借り物”みたいな感じがする。
でも、その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、別の記憶みたいなものがふっと浮かんだ。
白い病室。
窓から差し込む光。
聴診器を当てる医者。
──たぶん、千鶴の記憶だ。
「でもさ、千鶴ってさ」
「なに」
「ちっちゃい子とか見ると、すぐ構うじゃない」
ちょうどそのとき、小学生くらいの男の子が、よそ見をしながら走ってきて、私の横腹に軽くぶつかった。
「わっ」
男の子は、あわてて体勢を立て直す。
「ご、ごめんなさい!」
大きな目をまん丸にして、私を見上げる。
「大丈夫だよ」
手が、自然に動いた。
男の子の頭をそっとなでた。私が動かしたんじゃなかった。千鶴の手が、千鶴のやり方で動いた。
男の子はほっとした笑顔をみせて、走り去っていく。
胸の奥が、きゅっとする。
さっきよりも少し強い鼓動。
でも、嫌な痛みじゃない。
「ね?」
結子が笑う。
「今みたいの見るとさ、やっぱり千鶴、絶対いいお母さんになるって思う」
「……そんな簡単なもんじゃないよ」
言いながら、言葉の重さに、自分でびっくりする。
「お母さんになる」ということが、この身体にとってどれくらい大変なことなのか。
千鶴は、きっと誰よりも知っている。
「未来のくらし館」は、行列の最後尾が見えないくらい並んでいた。
照りつける日差しの下、列がくねくねと蛇みたいに伸びている。
「やっぱり、すごく人気ね」
結子がハンカチで汗をぬぐう。
私は、さっきから少し息苦しい。
喉が乾いているのに、あまり水が入っていかない。
胸の奥が、じん、と重い。
心臓の鼓動が、ずっと不規則なのを感じる。
「大丈夫?」
結子が、さっきと同じ台詞をもう一度言う。
「……うん。大丈夫」
口が勝手にそう答える。
この「大丈夫」は、癖になっている。
昔からずっとそう言ってきたから、常に貼りついている言葉なんだ。
私の知っている「18歳の身体」とは、まるで別物だ。
──この身体で、全部やってきたんだ。
そう思うと、胸の中がきゅっとなる。
「もうちょっとで日陰だから、そこまで頑張ろ」
結子が、さりげなく自分のカバンで日差しを遮ってくれる。
「……ありがと」
ひねりのない言葉しか出てこない。
でも、ありがとうと言いながら、「この人たちに心配かけたくないから、“大丈夫”って笑ってきたんだろうな」と、他人事みたいに思う。
建物の入口までたどり着くと、空気が少しひんやりした。
涼しさに安堵し、さっきの息苦しさが少しずつ落ち着き始める。
扉の向こう側は、外の明るさとはちがう、煌々としたまばゆさを帯びている。
その光に向かい、人波に身を任せていく。
「わあ……」
結子が素直な声をあげた。
並ぶテレビ、キッチン、洗濯機や掃除機———。
昔の未来、という言葉があるのかわからないが、どれも風変わりな、未来的な姿だ。
知っているのに、知らない姿をしているそれらに、なぜかワクワクしてしまう。
──その奥に、「家族の未来」という展示コーナーがあった。
私は、なぜか吸い込まれるようにその展示に歩を進める。
「21世紀の暮らしでは、家族の姿も変わっていきます」
ナレーションに合わせて、大きなテレビ画面に映像が流れる。
リビングルームのイメージ映像。
大きなテレビの前で笑う家族のシルエット。
ぼんやり眺めていたそのとき、別の映像が重なった。
──白い病室。
ベッドの上に半身を起こした女性と、その腕の中で眠る赤ちゃん。
窓から光が差し込み、逆光で顔ははっきり見えない。
でもどこかで懐かしさを覚えるそのシルエットに、胸がざわつく。
──お母さん、ではない。でもどこか似ている。
映像はすぐに切り替わる。
別の家族、別の未来。
さっきのシーンが本当に流れたのかどうか、自信が持てない。
「あれって……」
我に返って、隣を見る。
結子は、全自動の洗濯機に夢中で、まったく気づいていない様子だった。
「全部ボタンひとつで洗濯終わるって、すごいわね。うちの洗濯機、いつ壊れるかしら」
私は笑うタイミングを逃し、そのまま黙り込む。
胸の奥で、何かが小さく結ばれていく。
さっきの映像が現実かどうかは、どうでもいい。
この身体から見る未来のどこかに、
あの人と、その子どもと、たぶんそのまた先にいる自分が、確かにつながっている。
展示を一通り見終わったころには、足が棒みたいになっていた。
外に出ると、太陽は少し傾き始めていて、さっきより影が長い。
「ちょっと休もうか」
結子が、会場の端にあるベンチを指さす。
腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けて、背もたれに身体が沈む。
心臓が、細かく速く、トクトクトクと暴れている。
「ごめんね、千鶴。長居しすぎたわね」
結子が背中をさすってくれて、少し安心感を覚える。
「ううん。私が、体力ないだけだから」
口ではそう言いながらも、苦しさに思わず顔をしかめる。
——私はこれまで、自分の身体は、当たり前に元気で、思ったとおりに動くものだと思っていた。
いや、そんなことを考えたことさえなかったのかもしれない。
走れることも、笑いながら歩けることも、階段を一段飛ばしで上がれることも、全部ただの"普通"だった。
でも今、その普通がどれだけ特別なものだったのかを、千鶴の身体の内側から痛いほど感じている。
この身体で、千鶴は笑っている。
この身体で、行きたい場所へ行こうとしている。
この身体で、未来を諦めないでいる。
「——ねえ、結子」
私——いや、千鶴が、掠れた声で呼んだ。
「ん?」
「もし、もしもね」
息を整えながら、ゆっくり言葉を並べる。
「もし私に、子どもができたらさ」
胸の奥で、心臓がひときわ強く跳ねる。
「その子には、“自分の身体、大事にしなさい”って、絶対言うと思う」
結子が目を丸くする。
「急になに。それ、うちのお母さんの口癖よ」
「……かもね」
思わず笑う。
笑うと、胸の重さが少し軽くなる。
結子は手で私の背中をさすりながら、おどけて言う。
「千鶴がそう言うたびに、その子、絶対嫌な顔するわよ。“また始まった〜”って」
「……うん。きっとそうだね」
笑いながらも、涙が出そうになる。
「落ち着いたら、混んでいないところ少しだけ回って、帰ろうか」
「うん、ありがとう」
私はうなずいて、遠くの空を見る。
あの塔の横顔が、オレンジ色の光の中に浮かんでいた。
「飲み物買いに行ってくるね」
結子が売店から戻ってくるのを待つ。私はベンチからゆっくりと立ち上がる。
近くに、小さな噴水があった。
低い縁に水がたたえられていて、子どもたちがその周りを走り回っている。
噴水の水面に、自分——千鶴の姿が揺れて映っていた。
私はその前に立ち、しゃがみ込む。
水の中の千鶴が、こちらを見ている。
さっきまでより、少し疲れた顔。でも、目はまっすぐだ。
「……ありがとう」
思わず、口からこぼれた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからない。
でも、そう言った瞬間、水面に映る千鶴の表情が、ほんの少し、柔らかくなった気がした。
それは、昨夜写真で見たぎこちない笑顔ではない。
温かく包み込むような——ああ、見覚えがある。お母さんの笑顔に似ている。
風が吹く。
水面が波打つ。
視界の端で、白い光がまたじわじわと濃くなっていくのがわかった。
「あ……」
足元がふっと軽くなる。
噴水の縁の感触がなくなり、地面から身体が、ゆっくりと引きはがされていく。
遠くで、呼ぶ声が聞こえた。
────はるちゃん。
この呼び方をする人は、一人しかいない。
おばあちゃん────。
そう確かめた瞬間、世界は音ごと、まっ白に溶けた。
◼︎Chapter4―「走り出す夜」へ続く