小説『PULSE』 Chapter1ー前夜
「この星で生き続けるために」——それは遠い未来の話ではなく、私たちが“今をどう生きるか”という問いでもあります。
地球環境や社会の持続可能性はもちろん、身近な誰かのいのちや暮らし、そして次の世代へ渡していく日々の選択も、その一部です。
私たちはこの深淵なテーマの一端にふれていただくために、物語を描きました。
これからお読みいただく短編小説『PULSE』は、2025年の大阪・関西万博を訪れた主人公がある体験をきっかけに55年前の万博と“つながる”物語です。
健康が「面倒な宿題」だった感覚が、世代を越えて受け取ってきた“想い”にふれることで、少しずつ意味を変えていきます。
読み終えたとき、もしあなたの中で何かが小さく動いたなら——それはきっと、あなた自身のPULSEです。
「はあ~……またコレステロール引っかかってるわ」
リビングにため息が落ちた。
ソファにもたれながらスマホをいじっていた私は、顔を画面から離さないまま、視線だけそちらへ向けた。
ダイニングテーブルに置かれた健康診断の結果を前に、母が眉間にしわを寄せている。
「この年で薬増やしたくないんだけどなあ」
テレビからは、明るいBGMとアナウンサーの声。
『先週開幕した、万博の会場では──』
画面が切り替わって、独特なマスコットキャラクターと、会場イメージCGが映る。
「遥。明日、亜紀ちゃんと何時の約束なの?」
母が画面を指さす。
「9時」とだけ返して、スマホに視線を戻し、親指をスクロールさせる。
タイムラインには、知らない誰かのダンス動画、やたら食欲をそそるスイーツの画像、塾の広告が流れていく。
「あ、そうだ」
母が何かを思い出したように、急に立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
そう言うと、廊下にあるクローゼットを漁り始める。
ごそごそと何かを探す音がする。
「……あったあった!」
少しして、戻ってきた母の手には、一枚の写真があった。
黄ばんだフチの白黒写真。二人の女の子が並んで立っている。
「これこれ。おばあちゃんの遺品整理のときに出てきたやつ。ほら見て、ここ」
背景はたぶん、教科書で見たことのある、例の塔の下の部分。左に立つ女の子を指さす。
白い長めのワンピースに、長いストレートの黒髪。ぎこちない微笑みの傍ら、どこか儚げな印象がある。
「これ、おばあちゃん。今の遥ぐらいの年だね。おばあちゃんも行ったみたいよ。55年前の万博」
「へえ」
私が知っている千鶴おばあちゃんは、静かで優しく、食事の前後に色々な薬を飲んでいた。
この写真の中の女の子と、記憶の中のおばあちゃんを、私は頭の中でうまく重ねられずにいた。
母は写真を見つめたまま続ける。
「どうしても行きたくて、友達とわざわざ遠くから行ったんだって。このころから身体弱くてね、おばあちゃん」
「うん」
「家族は反対したみたいよ。倒れたらどうするんだって。でもその反対を押し切って、友達にも支えてもらいながら、何とか行けたって。すごく楽しかったんだ、一生の思い出だって、よく話してたわ」
母は写真の左側を指でなぞった。
写真の中の女の子——おばあちゃんは少しぎこちなく笑っている。
「遥も倒れないように、早く寝るのよ。明日は暑いみたいだから。朝ごはんもちゃんと食べていってね」
「はいはーい、そうしますねー」
私はわざと軽めの声で言って立ち上がり、さっさと自分の部屋へ退散した。
自室のドアを閉めると、世界の音量が一段下がった。
ベッドにダイブして、スマホを顔の上に掲げる。
画面の右上の時計は、24時を回っていた。
朝早くに駅前集合。わかってる。わかってるけど、指は止まらない。
ショート動画をいくつもスワイプして、
友達のストーリーにスタンプだけ返して、
ゲームアプリのログインボーナスを受け取って──。
通知が鳴る。
Aki:
「明日9:00ロータリー集合! 遅刻したら置いてく!」
「最初は、予約したヘルスケアパビリオン行こ」
私は布団の中で身じろぎする。
Haruka:
「えーやっぱそこ行くの?」
返してから、ちょっとだけ罪悪感。
すぐに返信が返ってくる。
Aki:
「これも将来のための投資!」
「てか、はるか絶対こういうとこ一人で行かんやろ?」
「勝手にキャンセルとかやめてよー」
図星すぎて、「ぐっ」と喉の奥で変な声が出る。
Haruka:
「りょーかーい」
スタンプでごまかして、スマホを顔の横に置く。
天井の白をぼんやり見上げる。
ヘルスケアパビリオン、か。
万博に行くのは、まあ、悪くないと思っていた。
開幕前からSNSでプロモーションを何度も見ていたし、面白そうな展示もある。
でも亜紀が張り切って予約してきたのが「健康系」というのは、予想外だった。
亜紀らしいといえばらしいけど。何事にも前のめりで、こっちが乗り気じゃなくても気にせず引っ張っていく。
そういう強引さが、たまに羨ましい。
——ふと、さっきの写真の女の子、おばあちゃんの笑顔がじわじわ浮かんでくる。
私からすると「健康」なんて、だいたい「親と学校から押しつけられるめんどくさいこと」だ。
早く寝ろ、ちゃんと食べろ、運動しろ、スマホやめろ。
ぜんぶ「はいはい」で流しても、今のところ元気だし、体育も普通に走れてる。
──そんなに気にしなくても、私は大丈夫でしょ。
リビングからテレビの音がうっすら聞こえてくる。
『注目のヘルスケアパビリオンでは──』
私はまたスマホを手にし、画面に没頭した。
翌朝。
三回目のスヌーズで、ようやく起き上がる。
「……ねむ」
鏡に映る自分の目の下には、うっすらクマ。
おでこのニキビが、昨日よりちょっと赤くなっている気がして、思わず前髪で隠す。
キッチンから、味噌汁の匂いと、母の声。
「はるかー! 顔洗ったー? 朝ごはん冷めるよー!」
「はーい」
返事をしながらも、スマホの通知をざっと確認する。
亜紀からの「起きてる?」が1件。ネコが壁からのぞきこむスタンプ。こちらもスタンプだけ返す。
リビングに行くと、テーブルには焼き鮭と卵焼きとごはんと味噌汁。
ちゃんとした“朝ごはん”が並んでいる。
「うわ、多すぎ」
思わず声がこぼれると、母がエプロンの裾で手を拭きながら振り向く。
「今日はいっぱい歩くでしょ。お昼もちゃんと食べないと、途中でバテるんだからね」
「適当に済ませるから大丈夫——」
そう言いかけたとき、テーブルの端に置きっぱなしになっていた、昨日の写真が目に入る。
55年前の万博、微笑む女の子。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
私は椅子に座り、味噌汁を一口だけ飲む。
だしの味がじんわり舌に広がる。思っていたより美味しいと感じてしまって、ちょっと悔しい。
「ほら、美味しいでしょ」
見透かしたように、母が得意げに笑う。
私は写真を見つめながら、味噌汁の具をつつく。
「行ってきまーす」
玄関で靴ひもを結びながら叫ぶと、母の声が追いかけてくる。
「熱中症にならないように、水分まめに取るのよ! 日陰で休みながら——」
「はいはい、大丈夫ー」
そう言い残してドアを開ける。
朝の空気が、むわっと顔に触れる。夏の匂いがする。
私は歩き出す。まだ、この日が“二つの万博”をまたぐ一日になるなんて、これっぽっちも知らないまま。
◼︎Chapter2―「白い部屋」へ続く